Short Stories
Keong Saik Road 1

第1章 シンガポール
シンガポールに着いて初めての夜だった。 ベンクーレン・ストリートの安宿で荷をほどいた僕は、眠れないまま、ラッフルズ・ホテルから海に向かって広がる公園のあたりを歩いていた。 南国の夜は、満天の星たちが夜空を埋め尽くす時刻になっても、まだ暑さが残り、 シンガポール河を挟んで対岸にそびえ立つシェントン・ウェイの摩天楼は、涼をとるためにそこにやって来た者たちに、 のっぺりとして陰影のない表情を見せていた。
翌年の春に卒業を控えた僕は、大学最後の夏休みをアジアで過ごす予定で、このシンガポールの街にやって来たのだ。 あてもなく、ただ、自由気ままにインドネシアの島々を横断し、フィリピンからタイのあたりを、たっぷり2ヶ月かけて歩き廻るというのが、 そのとき、僕が持っていた唯一の旅程であった。食器問屋のあと継ぎとして、卒業後の人生を送ることが決まっていた僕にとっては、 最後の、自由で気ままな夏になるはずだったのだ。
シェントン・ウェイの光に誘われて、僕はさらに南の方へと足を進めた。 シンガポール河を渡り、ボート・キーの、古い倉庫の立ち並ぶ一帯をやり過ごすと、いつしかチャイナ・タウンと呼ばれるあたりに足を踏み入れていた。 もうたっぶりと遅い時刻ではあったのだけど、翌日の予定がなにもないという気楽さが、僕の足を無鉄砲にさせていたのだ。
クレタ・アヤでは、すでに閉まっていたチャイナタウン・コンプレックスの傍らを通り過ぎた。 行くあてもなく、ただ、おだやかな坂道を登って行くと、背後には、まだ、ニュー・ブリッジ・ロードのざわめきが聞こえていたけど、 坂の上から吹きつけてくるなま暖かい夜の風が、一歩、足を進めるごとに、表通りの賑わいを僕の背後に追いやっていった。
ケオンサイク・ロードと記された坂道には、人通りもなく、道の両側を占めているショップ・ハウスの灯火が、弱々しく、足元を照らし出していた。
厚い雲に覆われていた月が突然姿を現し、不吉なくらい赤い光が、古いチャイナ・タウンの街並みに注ぎだしたとき、 僕は、「永楽香蘭荘」と記された桃色の釣り灯籠に気がついた。
軒先に吊された、小さくて、くすんだくらいに薄汚れた灯籠は、いつもなら気づくこともなくやり過ごしてしまったのだろう。 しかし、気恥ずかしいくらいに明るい、南国の植民都市に辟易していた僕は、その灯籠が放っている妖しげな灯火に、 この街の、普段なら旅行者などにけっして見せることのない、もうひとつの貌をかいま見た気がした。
そして、それは、遠からず朽ち果てようとしている、この、ひなびた一画が求める生け贄を、うかつにも近づいてきた愚かな魂を罠にかけるため、 ケオンサイク・ロードの精霊が手招きしていたようにも思えるのだ。 だが、そのときの僕に、どうしてそれがわかっただろう。
しばらくの間、僕は、賽の目が出るのを待つような気持ちで立ち止まっていたが、 やがて、意を決すると、永楽香蘭荘に足を踏み入れた。そして、そのとき、僕のもうひとつの人生が始まったのだ。