Short Stories
Keong Saik Road 2

第2章 シンガポール
受付の老婆に金を払うと、僕は、ロビーのソファでくつろいでいる女たちに目をやった。 娼館がいちばん賑わいを見せる時刻だったのだ。客待ちの女は少なく、指名にこぼれ落ちた、とうのたった娼婦が2~3人、 安物のチャイナ・ドレスの裾から、若さや張りを失った脚をのぞかせていた。
若気のいたり、とでも言うのだろうか。 そのような場所で、わけ知り顔で振舞うことが、大人であることの証だと確信していた僕は、内心の不安を押しかくして、女を物色しはじめた。 場違いでしかない自分の存在に神経質になっていた僕は、女たちの視線を過度に意識しながら、手近な女を選びかけたのだ。
するとそのとき、奥の廊下から、情事を終えたばかりの客が出てきた。 ひとりの、得も言えぬ美しさの女を従えて。その女の美しさを、とうてい言葉では表現できないのだけど、 透き通るような白い肌は病的なくらい蒼ざめていて、肩までかかる長い髪からは、かぐわしい香りが漂っていた。 女の着ている深紅のチャイナ・ドレスが僕の目を幻惑させたのか、僕は、突然、まったくの別世界に足を踏み入れたような気になった。
客を送り出すと、女は、僕に向かって微笑みかけた。
女はヴィヴィアンと名乗った。鏡貼りの、けばけばしい部屋の中で、僕は生まれて初めて肉体の快楽、というものをこの女から教えてもらった。 それまでに肌を重ね合った幾人かの女たちからはけっして得ることのできなかった快楽だ。 ヴィヴィアンは、男の身体の秘密をすべて知り尽くしているようで、数十分の間に僕は何度も気を失いそうになった。 彼女は身体のすべてを使って、僕を快楽の深い淵へと沈めてくれた。 尽きせぬ歓びというものがあるとするのなら、ヴィヴィアンと過ごしたその時間こそ、まさにそれだったのだろう。 僕はヴィヴィアンに囚われた。ケオンサイク・ロードが、僕を罠にかけることに成功したのだ。
そして、それからは、もっているものすべてをヴィヴィアンに捧げた。僕の時間と僕の身体。僕の将来や有り金のすべて、などを。 僕は彼女が、ほかの男と寝るのを許せなかった。 永楽香蘭荘で彼女が客をとっている間中、僕はベンクーレン・ストリートの安宿で、発狂しそうな時間と戦っていた。 僕は嫉妬に苦しんだ。壁に囲まれた狭い部屋の中で、自分と向かい合うことに耐えきれなくなると、ケオンサイク・ロードのあたりをうろついた。 娼婦に恋してしまった自分の運命を呪うことも忘れて。
すべての金をヴィヴィアンに注ぎ込んだ僕は、親を騙して、なんどか送金させたのだけど、もちろん、そんなごまかしはいつまでも続くわけがなく、 尾羽打ち枯らす直前になり、僕はいったん帰国した。そして、日本橋の実家から通帳と印鑑を盗み出すと、数百万という大金を持って、再びシンガポールに戻ってきたのだ。
僕は晴れて彼女を身請けした。 嫉妬にさいなまされることもなく、狭いけど、ケオンサイク・ロードから遙か離れた漁村近くの貸間で、僕たちは新しい生活を始めたのだ。 なにもなさず、未来のことも考えずに、ただ、ヴィヴィアンを見つめながら毎日を過ごしていた。若い僕たちは何度も何度も睦み合いながら、 人生を楽観的にやり過ごしていた。
ある日のことだ。僕たちは、ふたりが暮らしていた漁村の船着き場から、小さなボートに乗って、沖合の島にピクニックに出かけて行った。 ボートの中で、彼女は立ち上がり、デッキの最後尾から身を乗り出して、遠く離れて行くシンガポールの街に目をやっていた。 そのとき僕は思ったのだ。彼女はけっしてシンガポールから出ることのできない女なのだと。 人それぞれに運命があるとするのなら、シンガポールこそヴィヴィアンの運命なのだ。
そしてもしそうだとするのなら、僕もまた、シンガポールにすすんで囚われる用意があった。
ヴィヴィアンが振り向いて、なにか言いかけた。 エンジンの音にかき消されて、なにも聞こえなかったのだけど、「ええ、そうよ。」と言っているのだと僕は感じた。 だとすれば、彼女は僕の心の動きがわかるのか。もちろんそうに違いない。なぜなら、彼女こそ僕の運命だったのだから。