Short Stories
Keong Saik Road 3

第3章 バンコク
窓から差し込んでくる朝の光で僕は目覚めた。 天井からぶら下がった年代物の扇風機は、きしきしと音を立てながら、澱んだ空気をかき乱していたけど、 僕は暑さにあらがうこともなく、汗の染みついた安物の寝具の上にただじっと身を横たえていた。 傍らでは、明け方まで客をとっていたルーケーオが、一日の仕事を終え、軽い寝息をたてていた。
もう何日も、この部屋から外に出ていないのだ。いや、もう何年にもなるのだろうか。 麻薬と絶望に蝕まれた僕の精神は、現実と妄想の間を彷徨い、苦痛だけを唯一、確かな感覚として受け止めながら、夜ごと夜ごと、その苦痛に打ちのめされていた。 たっぷりかいた寝汗にまみれ、すすり泣き、うわごとを言い、いっしょに暮らしていたラオ人の娼婦から、 貫いてやることもできなくなったこの身体をさすってもらうまで、僕はふるえ続けるのだ。 バンコクのチャイナ・タウンの淫売宿の一室で、僕は緩慢にやって来る死を、ただ待っていた。
シンガポールで僕はすべてを失った。 それは、話としてはお笑いぐさで、運命の仕掛けた罠から巧みに身をかわし、 笑い飛ばしてすべてを終わらせることもできたのだろうけど、ヴィヴィアンへの深い愛が、結局は僕を切り刻んだ。 親から盗んだ金が底をつき、真剣に働き口を探し始めたとき、彼女は消えたのだ。 ふたりの生活のために僕が買い与えた家財道具一式や宝石や衣装、ついでに僕の人生までもが一緒になって消えていた。
発狂しそうになりながら、僕はヴィヴィアンを探し回った。 ケオンサイク・ロードの永楽香蘭荘では、用心棒たちから袋叩きにされ、それでも、彼女の名前を叫び続けた。 絶望に向かい合うことのできなかった僕は、狂気の鎧で心を覆い、シンガポール中の娼館の扉をこじ開けて廻ったのだ。
シンガポールからバンコクのヤワラに至るまで、転落の足取りについては、もうほとんど覚えていない。 ペナンでは旅行者を騙して金を巻き上げ、ハジャイでは密輸の片棒を担いでいた。 そのたびに、僕はトラブルを引き起こし、地元のゴロツキや官憲たちから、命からがら逃げ回るはめになるのだ。
ヤワラの迷路に逃げ込んだとき、僕は、ラオ人の娼婦に助けられた。 ルーケーオと名乗るイサーン出身の女と巡り会った瞬間、僕は彼女の生きる理由になった。 そのときの僕は、もう充分に頭がいかれていたので、色の浅黒い、猫のようなこの女が、なぜ僕を愛するようになったのか、よくわからなかったのだけど。
それでも、僕は、彼女の腹についた帝王切開の痕跡を、精一杯慈しんだ。 亭主に刺された肩口の傷や、ヤクザにつけられたやけどの跡などを、僕が愛おしそうに撫でてやるたびに、彼女は、再び生きることの意味を見出して行くようなのだ。
しかしそれは、僕にとっても必要なことだったのかもしれない。 なぜなら、僕に触れる彼女の指は、僕の中に根源的な健康を甦らせてくれていたからだ。 ルーケーオが僕の身体に触れるたびに、僕の中にも、生きてみたいという気持ちが少しずつ芽生えてきたのだ。
その朝目覚めたとき、僕は、突然、外に出てみたいという気持ちにおそわれた。 灼熱の太陽を恐れる気持ちは薄らいでいて、僕が生きなければいけない、この世界に浴ぶみしたくなったのだ。 逃げるのでもなく、挑みかかるのでもないこの世界は、かつては、当たり前のように僕の前に存在していたのだけど、 ケオンサイク・ロードに迷い込み、暗い夜空からさしてくる、月の、赤い光を浴びてからは、僕が長い間見失っていたものなのだ。
その朝、僕は、久しぶりに暗闇から足を踏み出した。
昔懐かしいバンコクの街の喧噪は、ほとんど毀れかけていた神経を少し刺激したのだけど、 それでも、サンペーン・レーンを横切り、ラチャウォンの船着き場にたどり着く頃には、僕は自分の足取りの確かさに自信を取り戻していた。 チャオ・プラヤ河を下る船のエンジンの振動は生き生きとしたリズムを刻み続け、力強く僕の精神の内部に伝わって来た。
その鼓動は、身体の中で脈打つ血液の流れの音のようでもあり、跳び込んでしまいたいというような衝動にかられることもなく、 朝の陽光の中でたゆたう喫水線の動きに、心地よく身をまかすことができたのだ。
船の上から、暁の寺を正面に見て、僕はなぜか泣いていた。 天に向かって伸びて行く仏塔の美しさが、再び生きてみたいという僕の気持ちを育んだのだ。 バンコクで僕は救済された。僕が慈しんだラオ人の娼婦が、僕を救済してくれたのだ。